Constituents of a Theory of the Media
日本語訳:『メディア論のための積木箱』,H・M・エンツェンスベルガー(中野孝次、大久保健治訳),河出書房新社,1975 関連のあるチャプター
Introduction
資本主義の矛盾: メディア(意識産業)の生産力を発展させつつ、支配維持のためにそれを束縛せざるを得ない矛盾を打破すべきである。 既存枠組みの限界: リベラリズムや従来の組合主義では解決不能な、メディア特有の構造的対立を正しく認識せねばならない。 新戦略の必要性: 東西両陣営が恐れるメディア本来の「解放的ポテンシャル」を解き放つ、新たな理論と革命的戦略が不可欠である。
1. メディアの動員力(pp.261-262)
本質は「動員」: 大衆を受動的な客体から、能動的に動く主体へと変える力がメディアの本質である。
政治的封鎖: 技術的に可能な「送受信の可逆性」は、支配維持のために政治的に制限されている。
変革の核心: 一方的な「配信」を双方向の「通信」へ転換することが、社会変革の決定的な鍵となる。
制御の不可能性: 巨大ネットワークの中央統制は技術的に不可能であり、強引な検閲は社会の機能不全を招く。
情報の漏洩性: 政治的・経済的な技術制限を課しても、メディアの本質である情報の拡散は抑止できない。
生産力との乖離: 進歩した技術(生産力)が旧来の支配(生産関係)を追い越し、変革への矛盾が先鋭化している。
3. 左派的批判における文化的懐古主義 (pp.263-265)
敗北主義への批判: メディアを単なる「操作の道具」と見なす姿勢は、大衆を恐れるエリート的な偏見(敗北主義)である。 文化的退行: 旧来の広報手法(イスクラ・モデル)への逃避は、技術という新たな生産力から目を背ける文化的退行に過ぎない。 自滅的悪循環: 政治がメディア利用をサブカルチャーに委ね、技術を敵視する構造は、運動を弱体化させ資本主義を利する。
4. 民主主義の操作 (pp.265)
全員を「操作者」へ: 操作はメディア制作に不可避である。少数の独占を排し、全大衆を能動的な生産主体へと転換せよ。
支配の恐怖: 東側諸国の停滞は、メディアによる大衆の自律的動員と相互作用が権力を脅かすことへの恐怖に起因する。
インテリ特権の終焉: 複製可能な電子メディアの平等な構造は、一部のエリートによる文化的・教育的独占を解体する。
5. ニューメディアの特性 (pp.265-267)
情報の社会化: 特権的な「遺産」を解体し、誰もが即時アクセス可能な共有データへと記憶を解放する。
生産手段の奪還: 人工的な配信制限を打破し、メディアを大衆自身が直接運用する「生産手段」へと取り戻す。
組織的生産者: 孤立した趣味を脱し、集団で「生産者」として自立することで、エリートによる独占を打破する。
6. 社会主義戦略 (pp.267-269)
社会主義的メディア戦略は、個人を孤立させず、人々が自ら組織し集合的に学び生産することを重視し、技術や自由主義的な発信の自由の幻想を批判する。メディアは正しく使われれば、人々の経験を記録し、自己組織化と政治的学習を生む実践的な力になるが、資本主義法や秘密主義でそれを抑圧している。また、双方向的・ネットワーク型メディアは、中央集権と分散など従来の運動の対立を超える新しい組織モデルを可能にする。資本主義は人々の欲望を架空のものとしてではなく、現実的で正当な欲望を歪めて商品化し、無害化して利用している。大量消費社会のスペクタクルは欺瞞的だが、同時に欠乏のない社会や新しい生き方へのユートピア的欲望も映し出している。メディアや大衆文化は解放的欲望を商品化する一方で、政治運動が持ちえない動員力と社会変革の潜在力を秘めている。社会主義は人々の欲望を否定するのではなく、それを真剣に受け止め、文化革命として実現可能な力へ転化すべきだと主張されている。 7. ニューメディアの持つ破壊力 (pp.269-270)
電子メディアは本質的に政治的・社会的な転覆力を持ち、トランジスタラジオの例のように解放闘争やベトナム戦争の反戦運動、植民地支配の可視化などに大きな役割を果たしてきた。メディアは意図的・戦略的に使われることで強い動員力を持つが、露出そのものに依存する運動は一時的で、十分な効果を発揮しない。重要なのは、組織された集団がメディアを自らの論理に従わせ、行為そのものをメディア化することである。 革命的状況においては、大衆の自発的実践によって既存メディアの構造が非連続的に変化し、その定着度が文化革命の成否を示す。この時重視されるのは高度な技術よりも、速度・再生産性・可搬性であり、情報は街頭へ可視化され、新たなメディアが生み出されていく。
8. メディア:マルクス主義理論における空虚なカテゴリー (pp.270-271)
マルクス主義左派は本来、メディアという最先端の生産力を重視すべきだったが、多くはそれを資本主義的堕落として退け、解放的可能性を見失ってきた。その結果、メディアをめぐる革新的実践は政治的左派ではなく、アヴァンギャルド芸術や大衆文化の側に委ねられてしまった。マーシャル・マクルーハンは理論的には空疎で神秘主義的だが、新しいメディアの生産力を直感的に捉えた点では官僚化した左翼より鋭かったとされる。「メディアはメッセージである」という言葉は、支配階級がもはや語るべき意味ある内容を持たず、メディアが自己目的化している状況を暴露している。 9. ベンヤミンの偉業 (pp.271-272)
電子メディアの登場によって生産条件が根本的に変わり、従来の美学や自律した芸術作品という考え方はもはや通用しなくなった。この状況を最も早く理論化したのがヴァルター・ベンヤミンであり、その洞察はいまもなお新しい美学の出発点であるとされる。複製技術は作品の唯一性と伝統を解体し、芸術を儀礼から解放して、政治的・社会的機能へと転換させた。映画はその変化を最も強く体現し、文化遺産の権威を破壊することで新しい社会的意義を生み出した。芸術はもはや自律的領域ではなく、メディアと社会的生産の一部として再定義されるべき存在である。写真や映画を芸術か否かで問うこと自体が的外れで、重要なのはそれらが芸術の本質をどう変えたかである。美学は伝統をそのまま守るのではなく、より大きな理論の中で弁証法的に乗り越えることでのみ存続しうる 10. 文字文化の終焉 (pp.272-274)
文字文化は電子メディアの発展によって再び話すことへ回帰しつつあり、書物は歴史的には重要だったが暫定的なメディアになりつつある。
書くことは専門化と選別を伴い、階級差や権威を再生産する装置として機能してきた。
書き言葉は思考の揺らぎや矛盾を排除し、規律化・正規化を強いる支配的な表現形式である。
印刷物は生産者と読者を分断する一方向的メディアであり、対話性や修正可能性を欠いている。
電子メディアは本来、対話的で参加的な性質を持ち、専門性や階級差を弱める潜在力を持つが、現状では旧来の権力構造に抑え込まれている。
技術発展により、書くことは音声を文字化する二次的手段になりつつあり、出版技術そのものが変革の中心となっている。
また複製技術の発達によって、フィクションとノンフィクション、事実と虚構の境界は曖昧になり、電子メディアは本質的に加工された現実を扱うものとなった。
11. 芸術の脱神聖化 (pp.274-275)
メディアは完成した作品ではなく、反応や修正を取り込み続ける開かれた過程を生み出すものであり、消費物ではなく生産の手段であるべきだとされる。芸術は常に新しい表現を求めて新しいメディアを必要としてきており、ダダイズムのような実験も電子メディア的感覚の先取りだった。しかし、単なるランダム性や誰でも作者になれるという安易なインタラクティブ性は、本当の相互作用や生産を生まない。重要なのは、メディアの構造に即して、意味ある関係や共同的な表現を組織することである。 これからの作者は専門家であり続けるのではなく、自分が不要になる状況をつくることを目指すべきだとされる。作者の役割は人々の代弁者として解放の力を引き出し、最終的には大衆自身が主体となることを支える点にある。
アントニオ・グラムシの「知性においては悲観主義を、意志においては楽観主義を」という言葉は、現実を冷静に見極めつつ、変革への希望を持って行動する姿勢を示している。